あの青い作業着を脱ぎ捨てて。

アニメ・漫画・小説・ゲーム等のフィクション作品の感想をゆるく綴ります。

【感想】『盆の国』スケラッコ

 

盆の国 (torch comics)

盆の国 (torch comics)

 

 

ほとんどの人間が気づかないまま、街自体がお盆(8/15)を延々と繰り返す、1dayエンドレスエイト状態に陥った。この状況に気づいたのは、女子中学生・秋。彼女はご先祖様の幽霊(おしょらいさん)を見ることが出来る。秋は謎の浴衣青年・夏夫と出会い、協力し、このエンドレスエイトを終わらせるべく奔走する。

というのが大まかなあらすじ。ループモノの作品なんて掃いて捨てるほどあるのだが、この作品の魅力はそういう話の筋には無い。正直、ループモノとしては若干詰め込みすぎという印象を受ける。

郷愁。ノスタルジー。この作品の魅力は、そういう情緒的な部分にある。お盆・おしょらいさんという設定が非常に良く、思春期の普遍的な悩み(友情とか恋とかその辺)を抱える女子中学生という主人公設定に不思議とマッチしている。方言(京都弁?)も良い。ループモノの多くが、SFなり科学技術なりが関わってくるが、本作は「霊的なもの」に帰属する。霊的なものといっても、おどろおどろしい無機質なオカルト現象ではなく、どちらかといえば優しくほんわかとしている。

後半になり、夏夫の正体とかループの真相とかが明らかになってくるあたりは、多少のおどろおどろしさが出てくる。詳細語るとネタバレになるので伏せますが。ラストも切ないけれども前向きで、「中学生の淡い夏の一ページ」よろしく涙を誘う。

落雷という不慮の事故で亡くなり、おしょらいさんとなってしまった秋の同級生・新見くんの存在・会話など、「生と死」に関する言及もある。ガッツリ死生観について語るということはないが、その辺りの塩梅も良く、物語のスパイスとなっている。

ループモノとしてはともかく、少女のひと夏の切ないジュブナイルモノ・ガールミーツボーイモノとして非常に良くできており、情緒に訴えてくる良作だった。

【感想】『はねバド!』濱田浩輔

 

 

『はねバド!』は、個人的に今一番熱いスポーツ漫画である。
かつてジャンプで唐突に勃発した、『ニセコイvs恋染紅葉vsパジャマな彼女』の恋愛モノ三つ巴に敗れ去った作者であるが(パジャマな彼女)、こんなに熱いスポーツ漫画家に転身するとは。
とはいえ序盤は、前作の方向性を色濃く残した、萌え成分強めでスポーツ漫画としてはどちらかといえばゆるめな部類の漫画だった。が、4、5巻あたりから絵柄が変わり、中身もガチ目なスポーツ漫画に変貌を遂げた。表紙の絵柄変遷でも一目瞭然である。

 

 ※同一人物

で、この作品のスポーツ漫画、もっといえば「(女子)高校生の部活バトミントン漫画」として優れていると個人的に考えるのは、キャラの個性・掘り下げである。主人公はもちろん、チームメイト、各ライバル高校、主人公の母親、果ては対戦相手のむさい監督までもが、それぞれのバドミントンという競技や高校の部活動に対する思想・信念を持っている。そしてそれゆえに葛藤もある。その葛藤を乗り越えたり、乗り越えようとしたりしている。ただ熱いだけでなく、各人の哲学や人間的弱さを描いているのが良い。

バドミントンシーンの描写も良い。静と動のメリハリがしっかりとついていて、手に汗握る。また、僕はバドミントン素人なので中身の正否までは詳しく判断できないが、ダブルスの戦略や打つ方向・強弱をしっかりと論理的に判断している様も描いており、バドミントンというスポーツの面白さ・奥深さも伝わってくる(バドやテニス、卓球みたいな、ネットを挟んで行う競技は本当に経験がないので…)。

最新9巻において綾乃は、母(世界的なミントン選手)や周囲の人間、またバドミントンという競技との関係性について、一つのスタンスを獲得する。それは「強くなることに躊躇わない」「性格の悪さを自覚した上で、どんなに強くなっても優しい人になりたい」「母をバドミントンで超えることこそ、私の親孝行」というもの。このスタンスの獲得は、BWF(世界バドミントン連盟)の育成選手になるという行動に現れる。このスタンスの獲得までに、暫くの間良い意味で相当回りくどくて歪んだ綾乃の葛藤が続いてきたが、一つの決着を得た。

ちなみにこの漫画を受け入れられるかどうかの大きな分水嶺が、冒頭に書いた絵柄の変化に加え、主人公・綾乃のキャラ変貌…もとい狂戦士化に耐えられるかどうか、というところにあると思う。上述した回りくどく歪んだ葛藤の発露である。個人的にはこういう唐突な狂戦士化に抵抗感はなく、綾乃に至ってはめっちゃ好きなのだが(煽りのセンスが相当高い)、耐えられない人・萎えてしまう人も多いと思われる。最初期は声が小さくおっかなびっくりで小動物系だった綾乃ちゃん、今ではコート内外問わずゲス顔で相手を煽り倒すまでに成長したよ…。「はねバド ゲス顔」で検索検索ゥ!

【感想】『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』『一人交換日記』永田カビ

高校生活は謳歌したものの大学に馴染めず半年で退学し、所属する場所を失った不安感に苛まれ、アルバイトを始めるも心身不安定で過食症になり、全うに働けずクビになり、いよいよ死も視野に入ってくるも、開き直って色々立ち直ろうと奮起する。が、どうにも上手く行かず、心身は更に朽ち果てた挙句、「28年間愛を獲得したことがない」「性的な経験もない」「ぬくもりが欲しい」という状況を解消するため、そして「性的なことに興味がない振りをして、ブレーキを掛けていただけだ」と気づき、「自分の興味に沿って行動する」ため、「レズ風俗」という、傍から見れば奇特な、しかし本人的には(ある程度)筋の通った手段を行使する―。

 というような内容が書かれているのが『レズ風俗』の方。乱暴に言えばメンヘラ気質な人間の思考や面倒な自意識と、それに付随する母との関係(というか作者の母への愛憎入り混じった感情)の整理、そして(一時的な)精神の再生までの思考プロセスの言語化がメインで、ぶっちゃけ「レズ風俗ってこんなところ!」みたいなレポはほぼ皆無。

 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 

『一人交換日記』の方は、『レズ風俗』後の生活の話。『レズ風俗』で漫画家として生きていく方向性(=フィクションではなく自分を切り売りするエッセイを描く決意)を獲得し、ヒット作も一つ生まれ、レズ風俗で人肌に触れて多少救われた、めでたしめでたし、とは行きませんでした。『レズ風俗』によって得た漫画家としての知名度は逆に家族との関係を(どちらかといえば)マイナス方面に進むきっかけにもなるし、それ故素直に世間からの評価を受け取れないし、あー生きるのって難しいなぁこんちくしょう、という感じ。

 

一人交換日記 (ビッグコミックススペシャル)

一人交換日記 (ビッグコミックススペシャル)

 

 

内容としては、『レズ風俗』はどん底⇒プチ救いというある種王道的な流れだが、『一人交換日記』はそのプチ救い後も生活は続いていくんだよ、漫画家として一つヒット作を出した位じゃ劇的にポジティブになれないんだよ、それどころが辛みは増すのだよ、ということを如実に抉り出している。

この『一人交換日記』の存在が、より『レズ風俗』を引き立てているというか、相互に補完しているというか、「一時救われて、めでたしめでたしに見えてもゴールじゃないし辛い生活は続いていくのだよ」というある種当たり前のことを際立たせてくれる。一作のヒットも、一時的な温もりの獲得も、根本的な精神状態改善には程遠い、むしろ悪化の要因であることを知らしめてくる。辛い。

 

自分は、「どちらかといえばちょっと社会に馴染めない」程度の人間で、文句垂れ流しながらも普通の会社員として何とか社会にしがみついていける程度には健康な精神を持っている(と信じている)ので、本作で描かれている「生き辛さ」や永田さんの思考プロセスに心から共感できたわけではない(人生で一度も愛を獲得していないところは共通項、残念ながら)。

しかしこの手の本では、共感=面白み、ではない。むしろこういう人々がどういう思考プロセスで「生き辛さ」を感じているのか、ということを(少しでも)理解できて、大変興味深かった。いや「こういう人々」と一括りにするのはいささか乱暴か。こういう精神の話は、結局は「個人」に拠る部分が大きすぎると考えているので、この話もあくまで一例、永田カビさんという個のケースと捉えておく。

さっきから思考プロセスという言葉を多用していてアレだが、この作者の凄いところは、「生き辛さ」という感覚へ到達するプロセスを、理路整然と描いているところである。

またこういうエッセイ漫画、特に行動より思考の描写に重きを置いている作品は、漫画の絵的に動きがなく退屈なことが多々あるが、この作者は、思考の状態をあの手この手で描写してくるので、絵的な飽きがこない。どころか、作品の大切な要素になっている。この描写センスがなければ、この重々しくてともすれば被害妄想強めな思考の独白を最後まで読むことは難しかったかもしれない。

「欝は甘え」とかいう誤った幻想を抱いている人間以外の全ての人間に、一度は読んで欲しい(そういう人こそ読んで欲しいけど、頑なに切り捨てそう)。共感する/しないに関わらず、何かしらの感想・考えるきっかけを必ず持てる作品だと思う。

【感想】『トロフィーワイフ』舞城王太郎

 

群像 2016年 12 月号 [雑誌]

群像 2016年 12 月号 [雑誌]

 

群像12月号に掲載されていた本作。中篇。

語り手・扉子の姉で完璧超人の棚子が、突然銀行員の夫と離縁し、福井の友人の家に転がり込んで生活を送る。離縁の理由は、「夫が『真実の愛』に気づいたから」というもの。この「夫が『真実の愛』に気づいた」の真意や、扉子-棚子の姉妹の関係及び棚子-周囲の人々の関係、事の顛末、更には突き詰めた幸福論を、舞城さんらしい軽妙ですっ飛ばした語り口で100ページ強に詰め込んでいる。相変わらず密度が濃い。

夫が気づいた『真実の愛』っていうのは、「自分が所有権を得たものに対して深い愛情を抱くのは、そのように価値観が変化するから」という、ある社会学者の実験に基づいている。
夫としては、棚子のような非の打ち所のない人間が、自分を愛している(価値観が変容しているから)という根拠になる。また他人の、ともすれば「妥協」とも取れてしまうような結婚・恋愛も、「(変容した価値観に基づいた)真実の愛」として認められるようになる。
しかし棚子は、これを良しとしない。結局、これは「(きっかけさえあれば)誰でも良いのだ」と捉える。一理ある。そのことに絶望し、福井に引きこもるに至る。

この愛やら幸福やらの価値観の対立を、扉子という第三者的で冷徹な視点で観察されていく。扉子は扉子で、棚子というあらゆる意味で重い姉と対決する。

各登場人物の会話が、いつも以上に絶妙に噛み合わなくてすごい。この噛み合わなさが、各登場人物の思考主張の描写に留まらず、物語の駆動要因になるのが舞城さんのよさであるが、本作ではそれが際立っていた。テーマについても、幸福・恋愛・結婚という割と普遍的な材料を、物語と上手く絡めて独自の視点で饒舌に語っている。舞城作品ではしばしば出てくるような、絶妙でナチュラルなサイコパスチックな棚子と周囲のややホラーな関係性も、少ない紙幅で抉ってきて良い。今年読んだ純文(?)周りの作品では一番良かったと思う。

 

既存の作品では『キミトピア』辺りに収録されてるものの進化系、みたいな。

 

 

【感想】『やがて君になる』仲谷鳰

 

生徒会が舞台の百合漫画…と言ってしまうとありふれているようだが、心地よいようで今にも崩れそうな絶妙な距離感を、透明感溢れる筆致で描いている本作には、他の類似した作品にはない魅力がある。

他者からは完璧と見られがちだがそれは頑張って演じているだけの生徒会長・七海燈子と、特別という感情、ひいては恋愛というものをイマイチ理解しきれない生徒会新人・小糸侑が距離感を詰めていく話。

この七海先輩、表は完璧生徒会長、裏では何というかチワワ系で、侑に迫る甘えるキスをねだる。最初は戸惑いを感じていた侑も、まぁ徐々に受け入れてはいく…のだが、キスを受け入れる段になっても、「自分は七海先輩が好きなのだろうか?」と自問する。その自問自体、ひいては「私は人を好きになれるのか?」という根本的な問題が、侑を苛んでいる。寂しさを抱かせている。

「寂しいと思ってた 誰も好きになれないなんておかしいとか わたしもみんなみたいになりたいって」

「今は思ってない?」

「…七海先輩がそのままでいいって言ってくれたから 好きって言われても好きって返せないわたしのことが好きだって そう言ってくれるから 今はもう寂しくないかな」

——『やがて君になる』 3巻 第15話

上記は、侑と生徒会同期・槙くんとの会話。槙くんも侑と同じく「特別って何ぞ」側の人間で、しかもそれを進んで受け入れている節がある。侑も受け入れているような発言を上でしているが、寂しそうな顔をしながらの発言であり、その内心では寂しいのである。嘘である。もっと具体的に言えば、「心の底から七海先輩のことを好きになりたい」という気持ちと、「それでも好きと感じられない」という気持ちが同居している。切ない。能動的なキスもできない。

この「好きになれない」というのは、百合的な意味というか、「女の子同士なんて…」という次元ではない。侑のコレが先天的なものか後天的なものかは現時点では不明だし今後説明されるかも分からないし説明なくても良い部分だと思うが、この2人が真のハッピーエンドなるもの(定義不明)を迎えるには、乗り越えなければならない。この葛藤の丁寧な描写が、他の作品にはない、本作ならではの魅力である。

次巻からは、七海先輩の過去が明かされる(ような気がする)生徒会劇及び文化祭編に突入するようだ。この2人の行く末を決める出来事になるのでは。どのような形でも、幸せにしてあげて欲しい。

【感想】『少女終末旅行』つくみず

 

少女終末旅行 4巻

少女終末旅行 4巻

 

  タイトル通り、少女二人が終末世界を旅行する話。旅行というよりは放浪だが。もう少し具体的に言うと、しっかりものの黒髪ツインテのチトと楽観主義者でちゃらんぽらんのユーリという少女二人が、インフラはほぼ死に、日々消費する食料を計算しないと飢餓まっしぐらで、人もほとんどいないという終末世界を、ケッテンクラート(半装軌車)に乗って旅をする、という話。ただし終末世界が舞台であるが、基本的に悲壮感や絶望感は描かれない。ゆるふわで、終末世界における様々な発見(過去の文明とか)や、時折出会う人間たち(地図作りに執念を燃やす青年とか、飛行機作りに精を出す女性とか)を通して、チトとユーリがあれこれ会話をする……というのが基本線。ゆるふわな会話だけでなく、人生哲学っぽいものやら過去の文明との折り合いの付け方やら、そういう物事を考えるフックのようなものがちりばめられている。
 2巻のあとがきで、作者の「ただ生きるためだけに生きれたら」という言葉があったが、チトとユーリの旅はまさにそれを象徴している。さしたる旅の目的地はおろか人生における目的、言い換えれば希望、のようなものは無い。水や食料を探して、生命活動を維持していくための旅。旅の中で小さな発見を重ね、時折何か教訓めいたことを学ぶこともあるが、それを活かして何かを為すでもない。まさに「生きているだけ」。それでも、いやだからこそ、この作品は面白い。他の作品にはない魅力がある。終末世界という舞台装置を設置する作品のほとんどが、「どうして終末に向かったか」とか「終末世界から脱却する為の劇的な行動」みたいなものを、いわば大きな物語を描いてきた中で、この作品は無目的にミニマムな生をぬるぬる全うする姿を描いている。
 旅の道中で出会う人間は二人いて、先述の地図作成マン(カナザワ)と飛行機作成ウーマン(イシイ)である(別々のタイミングで出会う)。彼らはチトとユーリのような他者とのふれあいはほとんど無く、一人で地図or飛行機の作成に精を出す。最終的には失敗するも、再び自分たちの目的に向かって歩き出す。自分たちの人生にはこれしかないんだ、とでも言うように。目的を持って一人で人生を歩んでいる彼らと、無目的に二人で人生を歩むチトとユーリの対比を通して、「どう生きるのか」という本作の裏(?)テーマのようなものが照射されている。
 ゆるふわな旅ではあるが、そのゆるふわさの源泉というか、この終末世界で「生きるために生きる」ことを実践できているのは、「絶望と仲良くし」ているからだろう。これはユーリの台詞であるが、ある種の開き直り・諦念という人生観が如実に現れている。終末世界だろうが、我々が生きているこの現実世界だろうが、質こそ違えど「絶望」なんてものは大なり小なり溢れている。彼女たちのようにゆるくかつ逞しく生きるには「絶望と仲良くなる」ことが不可欠なのだろう。難しいけど。

【感想】『第七女子会彷徨』つばな - 凡才サーキュレーション

 

 

【感想】『アリスと蔵六』今井哲也

 

アリスと蔵六 7 (リュウコミックス)

アリスと蔵六 7 (リュウコミックス)

 

 「アリスの夢」と呼ばれる、想像したことを実現させる不思議な力を持つ少女・紗名と、彼女の周りで巻き起こる事件や日常を描いたファンタジーでSFな本作。紗名は研究所に閉じ込められており、その中で「ワンダーランド」と呼ばれる不思議空間を創出するなど、「赤の女王」という二つ名に違わぬ不思議能力を振るっていたが、「外の世界」を知り研究所から脱走、そこで花屋のお爺さんである蔵六に出会い、様々な事を教わっていく。蔵六は「曲がった事が大嫌い」という信念を持ち、超能力云々など意に介さず、紗名を「1人の人間」として扱い、時に優しく時に厳しく接する。またそれと並行して、研究所やらワンダーランドやらアリスの夢やらが「外の世界」へ流出しつつあり、政府の対応やら何やらと、大きな物語も描かれる。

  といいつつ、この作品は結局は「人間の幼児期からの成長・脱却」、もっと言えば「社会への適応」を描いているように思える。恐らく誰しもが、ある意味「無敵」だった時代があるだろう。それは幼く未熟で、善悪の区別もつかず、社会という「制約」を知らなかった頃。我々は無限の想像力を持っていた筈である。幸か不幸か、我々は親や幼稚園の先生から、善悪を学ぶ。倫理を教わる。制約を知る。また心の繋がりを得て、それを失いたくない、傷付けたくないという気持ちが芽生える。それは社会で生きていく上では欠かせない事だし、成長するという事である。しかし一方でそれは無限で無敵の想像力を意識的または無意識的に制御することに繋がるのだ。

 本作に話を戻す。初めの方では周囲を顧みず思うがままに能力を使って滅茶苦茶にしていた紗名は、蔵六を初めとした周りの大人や友人と出会い、それがいけないことだと学ぶ。徐々にではあるが、「外の世界」に適応していく。勉強をして、学校にも通うようになる。無闇に能力を使わなくなってくる。能力の使用と引き換えに、社会の制約を学んでいる。大切な友人を得、傷付けたくないという気持ちを育んでいる。つまりは成長しているのである。また、紗名以外の後天的な能力者は、「能力が発現した時に想像していたもの」しか能力で扱えないという縛りがあるが、これも想像力の衰退を象徴しているように思える。

 6巻から始まる第3部では、「赤の王」という紗名以上の能力を持った少年が登場する。彼もまた善悪の区別がついておらず、紗名とは異なりそれを教えてくれる人間もいない。自らの楽しい気持ちだけを追求して能力を駆使し、「外の世界」に「ワンダーランド」を流入させる。周囲の人間によって成長した紗名との対比が見て取れる。

 人間の成長譚としても一級品だが、SFファンタジーとしての能力設定や空間の絵面も素晴らしい。ワクワクするし、まさに「ワンダーランド」という感じがするので、読んでて全く飽きない。特に最新巻の7巻では、メイド魔法少女(中身は優しく凛々しい婦警)と赤の王のバトルが描かれているが、これがまた良い。めでたくアニメ化するようで、バトルシーンへの期待も高まる。

 今後は、どうやら蔵六の過去が描かれるようである。彼の信念がどのように形成されていったのかをどう説得力を持って描くのか、非常に楽しみである。