あの青い作業着を脱ぎ捨てて。

アニメ・漫画・小説・ゲーム等のフィクション作品の感想をゆるく綴ります。

【感想】『夕子ちゃんの近道』長嶋有

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

人生の止まり木のような一瞬。

アンティーク店・「フラココ屋」で居候兼アルバイトをしている「僕」を通して語られる、周囲のちょっとユニークな、けれどもありふれているような人々との日常を描いた連作短編集。

一人称で書かれた作品は、概して自分語り多めで内省的なものが多いが、本作は少し趣きが異なっている。語り手「僕」の素性・過去・名前は最後までわからない。30歳くらいで、多少の貯金はあって、何か挫折した過去があるっぽい、せいぜいその程度のことしか匂わせない。「僕」が語るのは、「僕」が見た周囲の人々や出来事ばかり。この透明な語り手に徹している「僕」というのが、淡々した、どこか暖かくも寂しい感じがする彼らの日常描写を成立させている。

言ってしまえば、モラトリアムの延長を生きているような人々の生活描写が続くだけの物凄く平坦な作品である。が、その日常が、そしてそこに生きる人々がたまらなく愛おしい。「フラココ屋」というアンティーク店を緩い結束点とした彼ら彼女らの関係性は、偶然の産物である。物語的な必然なんてない。けれども日常ってそういうものだなぁとしみじみ感じ入る。

どのキャラクターも愛おしいのだが、個人的には話もキャラも朝子さんが好き。美大生で、卒業制作にいそしむ朝子さん。鋸で木材を切り刻む彼女の姿。基本的に緩い人々が多い本作のなかで、どちらかといえば鋭い印象を受ける女性(冷たい、ということではない)。「僕」は彼女を「年下だけど、さん付けしたくなる女性」と評している。年齢に関わらず、さん付けしたくなる女性って現実にもいるよなぁ、朝子さんはまさにさん付けしたくなる女性だよなぁ、としみじみ感じる。著者のこの観察眼というか、人間の捉え方に感心しきりである。

朝子さんに焦点を当てた短編「朝子さんの箱」のなかでの台詞。

「何かにみえてしまうってことは、この展示は失敗なんだ」

これは、本作の特徴である「さりげなさ」「何気なさ」とはちょっとずれた、いわば「狙った」台詞っぽいけど、本作及び長嶋有作品全般に通低している思想な気がする。意味づけの放棄。人生の出来事やそれに起因する人の気持ちなんてものの殆どに、大層な意味も一貫性もない。その事を自覚している物語というのは少なく、(意識的であれ無意識的であれ)意味のある描写、「何かにみえる」シーンを重ねている。一方で長嶋有は、この一貫性のない偶然をそのまま切り取ってみせる。
一応物語的な「事件」としては、定時制高校に通う夕子ちゃんが担任の子供を妊娠してしまうということが起きるが、それすらも特記することなく、日常の一つとして、他の出来事と並列して同列で扱う。物語の終焉に向けた決定的な事件にはならない。こういう状況下でも、人は相撲を見に行くものなのだ。