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あの青い作業着を脱ぎ捨てて。

アニメ・漫画・小説・ゲーム等のフィクション作品の感想をゆるく綴ります。

【感想】『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)

 

 

  物凄く今更感があるのだが、気になったので読んでみた。なぜ気になったのか?ボブディランに掻っ攫われたノーベル文学賞云々…とは関係なく、最近初めてプレイしたライアーソフトの『forest』や、再視聴した『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』『灰羽連盟』等々の感想・考察サイトをめぐっている中で、ちょいちょい言及されていたからである(これらの今更感も凄まじい)。特に『灰羽連盟』についてはものっそい影響を受けていると評判で、各話サブタイトルからも顕著に見てとれるのだとか。先に挙げた三つの作品に限らず「そもそもこの物語で描かれている世界って何ぞ?」みたいな作品が結構好きで、本作もそういう流れに沿ってという意味では楽しむことができた。また、後続作品(特に漫画やらアニメやらエロゲーやら)への影響力も見て取れた。


  作品の構造を簡単にまとめると、それぞれ「ハードボイルドワンダーランド」と「世界の終り」と題された、一見すると何の関連性も無い二つの世界での物語が交互に語られていく。「ハードボイルドワンダーランド」は、SFチックな情報戦の冒険活劇といったところ。「計算士」という潜在意識を利用した暗号化(シャフリング)を実施する特殊技能を持つ職業についている主人公が、敵対する「記号士」や自分が所属する「組織<システム>」、また地下に住んでいる謎の存在「やみくろ」と対峙する。またそれと並行して、いつもの村上春樹よろしく、「やれやれ」とのたまいながらジャズを聴き、お洒落な酒を飲みながら図書館の受付嬢や「博士」の娘と何やかんやしていく。一方の「世界の終り」では、幻想的なお話で、主人公の「僕」は壁に囲まれた街にやってくる。「僕」には記憶がなく、「門番」に「影」を剥がされ、「夢読み」として街の図書館で「古い夢」を読む仕事に就く。その中で、死に行く「獣」に思いを馳せ、図書館に居る娘に惹かれていく。で、実はこの二つの世界には大きな関係があって、「世界の終り」世界は「ハードボイルドワンダーランド」世界の「私」が「計算士」になる際に埋め込まれた無意識の核みたいなもので、いわば脳内ドラマなのである。


  物語の後半で、「ハードボイルドワンダーランド」世界の「私」は、「計算士」になるための(本人には黙って行われていた)手術の影響で「もうすぐ意識が切り替わる」という事実を知らされる。つまりは自分の認識上は「死」と同義である。「ハード以下略」世界の主人公である「私」は、それを受け入れ、緩やかに最後の時間を過ごす。それと並行し、「世界の終り」の主人公の「僕」は、この世界は住人が「心」をなくした「完全で穏やかな世界」であることを知る。剥がされた「影」とともに世界からの脱出を試みるが、すんでのところで引き返し、「心」を持ちながら過酷な森で生きていくことを選択する(「影」ときちんと分かれられなかったものは「森」に送られ、過酷な暮らしを強いられる)。世界を生み出した責任を背負って。


  所謂「ホワット・ダニット」物として世界構造の秘密が明らかになる、という話の筋は楽しめた。様々なものが現実世界や社会の象徴として描かれており、物凄く緻密ながら感性を大事にして役割が配されているという印象も受けた(ここでは詳しく考察しないしするだけの脳みそもないが…)。特に「世界の終り」世界の方で、心を失った世界が完全で穏やかな世界であるという描かれ方は、説得力があった。


  けれど、個人的に大いに物足りなかったのは、主人公のスタンスである。僕は「主人公の葛藤や積極的行動」というのが結構好物で、こういう世界構造を云々する話では特に、主人公には悩んで行動して劇的な変化をもたらして欲しいタイプの人間なのだ。そういう観点だと、本作はこのような僕のごく個人的なニーズを満たしていない。特に「ハードボイルドワンダーランド」世界の主人公は、「組織<システム>」と「記号士」の争いに受動的に巻き込まれて生活を壊された上、「博士」による手術によって認識的な「死」を強制されるという相当理不尽な立場に置かれているにも関わらず、大して怒りせずに「やれやれ」で済ましてしまう。確かに実際の現実世界というのは理不尽で、そこに怒っても行動をしても仕方がない、諦念が肝要である、と言えなくも無いだろう。それにしても「あまりにも」、である。その有りの侭を受け入れる姿勢が、ハードボイルドなのだろうか。


  また世界の「謎」を解き明かす際も、特に自分から行動を起こすことはない。「博士」に呼ばれ、説明を受け、大して疑いもせずに受け入れる。そこにカタルシスはない。また物語上の謎もほぼ解決される。「何の象徴だろうか?」という考察の余地はあるが、「何が起こっているのだろうか?」という考察の余地はあまりない。
 

 結局これは好み・求めているものの違いの問題だろう。色々と書いたが、物語の構造自体はとてもよく出来ていたと思うので、その点に関しては素直に面白かったと断言できる。