あの青い作業着を脱ぎ捨てて。

アニメ・漫画・小説・ゲーム等のフィクション作品の感想をゆるく綴ります。

【感想】『CITY』あらゐけいいち

CITY(1) (モーニング KC)

CITY(1) (モーニング KC)

『日常』でおなじみのあらゐけいいちの最新作。『日常』は、日常という名の非日常的ハイテンションシュールギャグを繰り出してきたが、今回はタイトル通り、ちゃんと「街っぽさ」が前面に押し出されている。主人公の一文無し女子大生・南雲が街を駆け巡って何やかんやする、という形式であり、そこで描かれている街の雰囲気とかをひっくるめて、どことなく『それ町』臭を感じる。

このCITYの日常は、彼女が繋ぐ。

という帯文の通り。

とはいえ、基本的には『日常』に近いシュールなギャグ・ハイテンションなリアクションがメインである(ので、詳細な説明をしたところでアレ)。『日常』よりは若干抑え目だけれども。その抑えた分を、「街感」の描写にあてている。駆け回って街を紹介したり、家賃滞納やらなんやらで生活を感じさせたり。

そして相変わらず絵が素晴らしい。表紙の色使い・謎の小物・ミニチュアのような質感の建物・可愛い女の子。どれをとってもすごく好み。

変なところで(ほめ言葉)安定してぶれないギャグと、可愛い女の子、それに加えて箱庭的「街感」が備わっている。こういう特定の場所で色んな登場人物が出てきて云々するタイプの漫画(というか物語)は、終わるときが本当に寂しい。既に『CITY』の街で暮らす人々に情が移っているので、出来る限りなが~く続いて欲しいと思う。

【雑記】今週のこと(3/12〜3/18)

久々に心に余裕ができた1週間でした。

日曜日。免許更新で東陽町まで出向く。免許更新ほど、行列や教室における気持ちの向き先が分散した催しってないと思う。一応免許更新っていう共通の目的があるけど、免許更新の列に並んでいる時に「免許更新楽しみ!」っていう人間なんていないだろう。みな、免許更新後の予定しか頭にない。
講習の冒頭で、内容の説明がある。いつも通りいつも通り、と聞き流していたが「最後にさだまさしの『償い』をみんなで聴いて終わります」という宣言に驚く。前の更新の時はそんなのはなかった。事故数や道交法改正、あの定番の『ビデオ』を観た後、本当にみんなで『償い』を聴いて終わった。相当にシュールな光景だ。せいぜい早生まれで都民、であることしか共通点を見出せない大人たちが狭い教室で『償い』を聴く。さだまさしの徐々に高ぶる歌声と、教室内の独特な空気と、窓から入り込む近所の野球部の掛け声が混ざり合って、笑い事ではないことを承知の上で笑いを堪えるのに必死だった。出来上がった免許は、前の時より顔の犯罪者感指数が向上していた。
売野機子『クリスマスプレゼントなんていらない』を読む。

この表紙のジト目、最高か。やっぱり売野さんは短篇で光る。相変わらず絶妙にポエミーな言葉で、社会とか人とか自分の気持ちとかへの違和感の表明が素晴らしい。
録画していた又吉のドキュメンタリーを今更観る。NHK古井由吉の好々爺感。「スランプの時はすんなり書けちゃうんじゃないかな」という言葉の含蓄が凄い。

月曜日。担当システム本番化により、1日仕事。貴重な隙間時間である通勤時間と昼休みに、穂村弘のエッセイ『世界音痴』を読む。

世界音痴〔文庫〕 (小学館文庫)

世界音痴〔文庫〕 (小学館文庫)

短歌はあまりわからないけど、穂村弘のエッセイは面白い。というか、若干ひねくれていて、そのひねくれに基づいた観察眼と豊富な語彙力を兼備している人のエッセイは大抵面白いと感じる(ようになってきた)。今まであまりエッセイを読んでこなかったのだが、今後は漫画も含めて積極的に読んでいこうと思う。ので、山本さほ岡崎に捧ぐ』を購入。めっちゃ面白い。小学生時分の懐かしガジェット・複雑な家庭環境を無視する奔放さ、中学生時分のアホさと思春期の入り混じる心持ち、高校生時分の焦燥感。色んなものが思い出される。

火曜日。月曜日とほぼ一緒。仕事がひと段落して、翌日からは早く帰れるけれども、大した解放感はやってこない。帰宅してWBCキューバ戦を(終盤だけ)観る。山田復活、隙あらば牧田。

水曜日。引き続き穂村弘『世界音痴』を読む通勤時間。「ひとりっこ」が心に刺さる。

「はじめまして」を云った直後の相手に見破られるほど、私のひとりっこ臭は強かったのだろう。

分かる。私もほぼ初対面の人間から「ひとりっこ」「B型」であることを平然と断言される(そしてその通りである)。
加えて長嶋有『問いのない答え』を読み始める。

問いのない答え (文春文庫)

問いのない答え (文春文庫)

長嶋有のディティールに対する想像力というか、「誰にでも擬態できる感」は本当にすごい。
資料整備をしながら、比較的心穏やかに勤務時間を過ごす。終業チャイム後即退社。漫画を買い込む。山本さほ『無慈悲な8bit』、長野香子『ミアのケーキは甘すぎる』、模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』他、『ARIA完全版』の新刊、無性に読みたくなったさくらももこコジコジ』、買戻し枠で衿沢世衣子『シンプルノットローファー』。
シンプルノットローファー

シンプルノットローファー

再読の『シンプルノットローファー』が、初読時よりも遥かに良く感じた。陳腐な言葉だが、年をとるにつれてこういう何気ない日常を切り取った作品に嗜好が傾いている。壮大な世界観も緻密な伏線も驚愕のどんでん返しも、心に入ってこなくなってしまった。悲しい気もするけれど。『シンプルノットローファー』は、とある女子高のとあるクラスの、(おそらく)2年間くらいの「どこか」を切り取った群像劇。漫画的なモノローグ(吹出しじゃないアレ)がほぼ(全く?)ないのがすごい。まさに彼女たちの日常を定点観測しただけの作品なのに、こんなにも面白かったとは。衿沢作品の蒐集を誓う。

ルヴァンカップDAZNで観れないのね。速報を追い、レイソルが勝利していることを確認。安堵。その後ハイライトを観る。手塚のミドルすごい。ガンバ戦の小林といい、ゴールを期待されていないボランチが時折見せるスーパーミドルは好物。ボランチは本当に手薄なので手塚の活躍は朗報(ゴールシーン以外分からんけど)。ハイライト上では大津がめっちゃキレていたので、リーグでの重要なオプションになってもらいたい。というかなってくれ。何のための10番だ。

木曜日。労働組合の集会に(初めて)召集される。どうにも真剣に耳を傾けることができない。苦手。出来レース感溢れる投票のために1.5時間ほど拘束されるなんて。
代表の面子を確認。今野が選ばれている。こないだの御前試合ではティウンティウンにされていたので納得。レイソルからは0ですね。東口が怪我していたので中村航輔あるのでは?と思ったがバックアップメンバー。まぁロシア以後に中谷中山とともにバックラインの中軸になって欲しい。酒井(ゴリ)の調子が良いようなので、それを楽しみにしよう。
『黒き淀みのヘドロさん』を読む。相変わらずキュートな絵柄をしながら思索的で寂寥感溢れる作品だ。「人助け」って難しいね。

金曜日。仕事を終えて寝る。何も無かった。感受性も死んでた。そんな一日。強いて挙げるならポメラ200がめっちゃ欲しいという欲が生じた。

土曜日。散髪を済ませ、実家(電車で30分)へ帰るべく中央線に乗る。休日昼の中央線下りの雰囲気は結構好き。東の都心へ向かう流れに逆らい西の郊外へ行く同志感というか。目的のバラバラ感というか。99%の人間が職場へ向かう平日朝の上り電車とは真逆。

仙台戦を観る。試合終了後そこに残るのは虚無感のみ。決めるべきチャンスを決めとかないとこういうことになるんだぞ、という典型の試合。仙台のギリギリのところのシュートブロックも上手かったけど。前線がちぐはぐで、エリア内に侵入してもシュートが打てない。守備陣は90分までは頑張ってたけどラストが。リーグ3連敗、いよいよきつい。

母が未だにポケモンGOにご執心の様子で、お台場まで出向いているらしい。周囲に継続している人がいないのだが、いるところにはいるものだ。ヘルガーを捕まえたと自慢気に話すが、GOにおけるヘルガーの貴重さが分からない。私にとってのヘルガーは、メガを逆手にとってスカーフ道連れで1体無理やり持って行く、哀しき存在だ。

実家に置いてある吉本ばななTSUGUMI』を読む。

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

中学生以来。当時の私は、こんなに儚さと鮮烈な存在感を併せ持つ登場人物がいるのかと、つぐみの存在に心を持ってかれた記憶が蘇る。

来週も頑張るぞ。

【感想】『黒き淀みのヘドロさん』模造クリスタル

『金魚王国の崩壊』『ビーンク&ロサ』でお馴染み(?)の模造クリスタルの最新作。自嘲めいたペンネームが良いよね。本作でも相変わらず、独特で絶妙な寂寥感を投げつけてくる。

新種の生命体・ヘドロから黒魔術によって作られた「ヘドロさん」。彼女は人助けを使命として生み出された「白馬の騎士」である(見た目は表紙の中性的な女の子)。善悪の基準が曖昧だが、純粋に「人助け」をしたいと考えている(考えるように作られている)。

1巻は「お嬢さま編」「先生編」の二編。前半は、暴君お嬢と、彼女との関係に悩む執事・ジローにまつわる話。

お嬢様は人を人とも思わぬ冷淡な人物でな…
自分が本当にオレをどうでもいいと思ってるって事を証明されるためにオレを殺そうとまでする…

この暴君ぶり。実際は、

私以外に興味持っちゃだめなのよ

という嫉妬深さというか、占有欲というか。

何やかんやでお嬢が落ち着き、ヘドロさんもお屋敷に住むことを許可される、というオチ。この何やかんやの過程もひと悶着ある。お嬢とジローとの歪んだ主従関係を、救済の一環として矯正しようと試みる際、お嬢は癇癪を起こす。本作のテーマっぽい「救済の是非」が顔をのぞかせている。

問題が色濃く現れるのは後半である。気さくなノリと優しさ、そして飛び降り自殺を図った生徒を救った経験から、皆に慕われる「りもん先生」。違和感無く学校に溶け込んでいるように見えるが、実は彼女は「自分のことを教師だと思い込んでいる近所のアホ」なのだ。ヘドロさん(とその一行)に課せられたミッションは、彼女の思惑を掴むこと、場合によっては策を講じることである。

この「りもん先生編」は、「救済ってなんぞ」という切実な問いを投げかけてくる。

「りもん先生」の存在に、害は無い。むしろ皆好いている。ヘドロさんに対して「りもん先生」の身辺調査ミッションを課した教頭先生でさえ、彼女を疎んでるわけではない。

「りもん先生」は現実逃避者である。妄想に浸って、そこから出ることを拒み、自らをかつての夢だった先生であるという歪んだ認識を携えて、危うく儚い幸福に染まっている。その現実逃避によって傷ついているものは誰一人いない。周囲の人間は彼女の妄想を知りながらそれを受け入れ、好意的に接している。

「ヘドロさん」という存在は、冒頭でも述べたとおり、善悪の基準は曖昧だが純粋に「人助け」をすべし、と定義された生命体である。さてここで問題になるのは、ヘドロさんが取るべき行動、すなわち「りもん先生にとっての救済とは何ぞや」という点である。誰も不幸にしないまま幸福に暮らしている現実逃避の妄想狂を、正気に戻すことは正しいのか。人助けと呼べるのか。

妄想に浸り、「本当の自分」というものを見失っている状態というのは、常識的には救済すべき事項である。世界の要請に従えば、その認識は矯正されるべきだろう。しかしそれは当人も周囲の人間も望むことではない。本人にとっては逃避していた現実を再度思い知らされ、周囲の人間も明るく優しい「りもん先生」を失うことになる。

りもん先生の正体がわかる…
でもわかってどうする?
りもん先生が先生じゃないのはみんな知ってる
知らないのはりもん先生だけ
りもん先生だけが知らない だからうまくいってる
だからこの事件を解決する必要はないんだ…

結局、「りもん先生」は正気を取り戻し、皆の前から姿を消す。その行く末が描かれることは無い。

「世界にとっての正しい形が我々の誰しもにとって幸福な形では無い」ということ、言い換えれば「誰も幸福にならない救済のジレンマ」というものが、この「りもん先生編」では描かれている。前提のように存在する「善」に則り人々の歪みを治して「人助け」を使命のように実行する「ヘドロさん」の存在を、どのように捉えるべきなのだろうか。

【感想】『岡崎に捧ぐ』山本さほ

【前書き垂れ流し】

小学生の頃、毎日のように遊ぶ仲が良い友人がいた。仮にAとしよう。サッカークラブが一緒で、遊戯王のキラサーチを試し、ベイブレード販売店を探し、マリオカート64のショートカットを開拓するなどの日々を送っていた。3年生から6年生まで、都合4年間、大抵の時間はAといた気もする。そんなAだが、途中で苗字が変わった。家では年の離れた高校生くらいの兄と母が常に喧嘩をしていた(後に兄は少年院に入ったらしい)。そのAとも、中学が別々になった途端疎遠となった。Aは成人式の同窓会にも顔を出さなかった。Aの近況はまるで知れない。

「友情は永遠」なんて言葉は、今はもちろんあの時も信じていなかったのは確かだが、次世代ワールドホビーフェアで貰った正規のミュウをボックスに預けてレポートを書くタイミングで電源を切断して増殖させる荒業で一躍人気者になったり、近所の小さい神社の夏祭りに尋常じゃないほどの期待感と高揚感を抱いていたり、人の家に泊まることが最強無敵のイベントだと信じていたりした、小学生時分の私にとっては、Aや、その他の友人と疎遠になるなんて全く考えていなかった。「疎遠になるかならないか」という問いに「疎遠にはならない」と答えるというよりは、そもそもこういう日々に終りが来るという前提が無かった。

私自身はしがない地方公務員の家に生まれ、家庭にも概ね問題なく、健やかに育てられた(と思う)。が、Aはどうだろう。当時の私は鈍感で(今もだが)、Aの家庭的なバックボーンを微塵も察知していなかったと思う。兄と母の怒号の中、よくぞ無邪気に遊んでいたものである。恐らくAの家庭環境というものは、端的に「荒れていた」のだろう。

その後、私は中途半端な中高一貫の私立に進んだ。(私を含めた)生徒の殆どが比較的温室で育ち、99%が大学に進学して、自らが育った家庭と同じ中の上程度の生活を再生産することを目的とした人間ばかりが集まっていた。そんな私にとって、小学校というのは最初で最後の「環境のるつぼ」と呼べるかもしれない。「受験」というシステムは、同程度の学力で、同程度の目標を持った人間が選抜されて切り分けされる。生徒にとっても、「学力」「校風」といった視点から学校を選ぶ。勿論各々別個の人間で個性はあるが、そのバックボーンは類似的だ。一方小学校は、単に「学区」で振り分けられる。高級住宅街を主とした一部の学区においては、その家庭的なバックボーンは画一的になるかもしれないが、何の変哲も無い普通の学区では、混ざる。小学生の私はまるで気にしていなかったが、Aやその他の一部の友人は、夕方のニュースの特報で取り上げられるような、場合によっては事件につながるような、複雑な家庭環境だったのだろう。

岡崎に捧ぐ

で、ようやく本題の『岡崎に捧ぐ』の感想である。こんな長々とした益体の無い前書きを書いたのも、『岡崎に捧ぐ』の、特に1巻にやられてしまったからである。ぶっちゃけめちゃくちゃ面白い。
「幼馴染プライベート切り売り漫画」というジャンルの通り、著者山本さんの小学校来の幼馴染である岡崎さんに焦点を当てたエッセイ(風)漫画。1巻が小学生編、2巻が中学生編、3巻が高校生編である。山本さんのTwitterでの発言によると、岡崎さんが結婚することになったのが、この漫画を執筆するきっかけとなったらしい。
デフォルメされた絵が作風にあっているし、懐かしいアレコレやあるあるネタを見事にギャグにする安定感がすごい。数々のガジェットを登場させるだけでなく、それを遊んでいる彼女たちの姿を触媒としてノスタルジーを刺激してくる。また単純に、山本さんと岡崎さんの友情物語としても良い。

1巻。岡崎さんとの出会いから始まる小学生編。無駄に長くなってしまった前書きのようなことを無性に綴りたくなるような内容。懐かしいゲームやおもちゃ(バトル鉛筆、たまごっち、ファミコンetc…)に傾倒し、下らないことに真剣になる日々。「個性的」で、今思えば家庭環境に問題を抱えていたあろう同級生たち。そもそも山本さんが入り浸る岡崎さんの家からして、父は休職中でパンツ一丁で家に居るし、母はワイン片手にふらふらしてろくにご飯も作らない。で、それを気にせず遊び倒す山本さん。どこの小学生もやることや考えることは一緒だなぁと思う。その懐かしガジェットや体験を、ノスタルジーを感じさせつつ湿っぽくなりきらずに笑いに消化しているのがすごい。

岡崎に捧ぐ 1 (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ 1 (コミックス単行本)

2巻は、中学生編。基本的には1巻の雰囲気を踏襲しつつ、思春期ならではの話もちらほら。裾チャックつきジャージを先輩から貰ったことにして自分で発注する話はホント秀逸だった。JOJOパロディも含めて。「靴下のラインが1本はセーフだが2本は先輩に締められる」等、こういう独自的かつ全国共通の謎ルールも「あるある」だ。

岡崎に捧ぐ 2 (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ 2 (コミックス単行本)


3巻の高校生編は、ギャグテイストがやや鳴りを潜める。岡崎さんと別々の高校になり、岡崎さん絡みの話は少し減っていく。また、中学生までの、皆で馬鹿みたいなことをやって大笑いする、ということが少なくなる。周りの皆が大人の階段を時に自然に、時に意識的に上っていく。山本さんは、それに焦りや寂しさを募らせる。もうゲーム三昧の日々に付き合ってくれる友人はいないのか。
この3巻がたまらない寂寥感を投げつけてくるのは、1・2巻での馬鹿騒ぎがあってこそ。アルバイトで自由になるお金を得、足となるバイクを購入しても、小学生の頃のようなきらきらとした自由を感じられないことに思い悩む。


岡崎さんの結婚、というのがこの漫画の着地点だろう。そこに至るまでの山本さんと岡崎さんの思い出や山本さんの寂寥感、進化を遂げるゲーム等をどう描くのか、先がとても楽しみ。

【感想】『売野機子のハート・ビート』売野機子

四半世紀の間、およそ真っ当な恋愛と呼べるものに縁が無かった男であるが、売野機子が捉えて描いている恋愛…というか人と人との関係性に、どうしようもなく惹かれる。色んな人間がそれぞれの生活を生きていて、当たり前のように傷つき、幸せを希求し、打ちひしがれ、社会から弾き出されたような感覚になりながらも、その想いを吐露する相手を求めて、見つけて、生きていく。売野機子が描く人物は、老若男女みな「少女」だ、って感じがする。儚げで夢見がちなところとか、世界との付き合い方に悩んでいるところとか、それでも人恋しさに焦がれているところとか。

で、本作『売野機子のハートビート』である。正直表紙絵の塗りが厚すぎて微妙だなぁ、と思っていたが、中身は本当に良かった。短編の神と化しているのでは。

「ハートビート」と銘打たれている通り、「音楽」をキーワードとした短編4編が収録されている。有名バンドマンと一般人の恋『イントロダクション』、僕のママの門下生・ゆみの音楽受験(おねショタ)『ゆみのたましい』、働く妻と専業主夫の夫婦愛『夫のイヤホン』、歌姫と音楽ライター『青間飛行』。どれも一級品の短編だったが、個人的には『イントロダクション』がベスト。次点で『夫のイヤホン』。

『イントロダクション』は、惚れっぽい有名バンドマン(40手前)である織部聖一が明け方の歩道橋で出会った女性・じゅりに一目ぼれをし、告白をするとこらから始まる。素性を隠したまま付き合うことになったが、なぜか共通点が多い。
大方の予想通り、じゅりは聖一の追っかけなのであるが、とにかく台詞や小物のチョイスがすごい良い。

一般人の私にも歴史があって 
たくさん傷ついたり 
おかしくなったりした
自分にとって大切なことは世間ではくだらないことなのだと分かって打ちのめされたり
誰とも分かり合えないって絶望したり 
ただただ愛に溺れたり 
自分の価値を見失ったり 
あきらめた筈の夢にふたたび燃えたりしながら
生きてきたの―
『イントロダクション』

こういう独白めいた、相手に自分をさらけ出す台詞回しが本当に好き。儚げで救いを求めるような絵とあいまって、抜群な破壊力を伴って頭に残るシーン。こういう長回しのポエミーな台詞って、漫画ならではだと思う。小説だと強弱が付けにくいし、映像で声付きでやられるとくどい。

織部聖一は自身を「噓つき」だと考えている。バンドマンの活動も「空想が得意だから」と少し自嘲気味に考え、じゅりに対して素性を隠しているのも「ウソ」だ。一方のじゅりも同じく「噓つき」である。聖一の素性を知らない振りをしていること、聖一の好きなもので固めていること(音楽、たばこの銘柄、コンバースのスニーカーまで)を「嘘」だと感じている。この噓つき二人が、嘘をばらして、本当の姿で結ばれるまでの手際のよさがすごい。
ここで描かれる、二人が嘘をさらけ出して、真っ青な服を着て歩道橋を渡るようになるまでが「イントロダクション」であり、これから先の、続いていくであろう生活こそが「サビ」なのだろう。

じゅりのデザインも最高。

三つ編おさげで、少し虚ろな目。このなりでタバコを嗜むなんて。売野さんが描く女性の魅力はすさまじく、売野作品少女ランキングを勝手に催したいくらいだが、その中でも上位。

次点『夫のイヤホン』は、うらやましい夫婦ランキング一位。90年代Jpopを聞きながら、マンションの一室で毛布に包まり肩を寄せ合い酒を飲みつつ夜景をみて語らう。最高か。

他二編も良い。バーズで新連載が始まっているようで、こちらも超楽しみ。

【感想】『電気サーカス』唐辺葉介

電気サーカス

電気サーカス

『Carnival』『SWAN SONG』『キラ☆キラ』等のエロゲーでおなじみ(?)の瀬戸口廉也氏の自伝的小説、『電気サーカス』。唐辺葉介は、瀬戸口氏の小説家名義。氏の作品の大半がダウナーで、社会や世界と馴染めない人間たちをさらに転落させてみたり、人間たちを孤立させて色々な秩序・正義観をぶつけてみたり、希望を掴んだ矢先に絶望へと叩き落してみたりと、まぁ刺さる人には刺さるしそうでない人にはそうでないライター・作家であろう。とはいえ単なる鬱ゲー・鬱小説ではなく、彼ら全員が転落していく過程に、内的/外的要因の両面で説得力がある。落ちるべくして落ちていく。

自伝的小説、と銘打たれているだけあって、どこか私小説めいた語り口で物語は進んでいく。氏の作品で最も平坦かつ暗澹とした印象の1人称。テキストサイト全盛の時代に生きる青年・水屋口悟と、まぁメンヘラといって差し支えない女子中学生・真赤を軸とした、自堕落でモラトリアムを極限にまで引き伸ばした人間たちの何も起きない、起こす気もない共同生活を描いている。

この水屋口は結局のところ、「あらゆる気持ちが継続しない」という特性があるのだろう。全うに生きようという気持ちも、もう死にたいという気持ちも。彼の中にあるのはただ、明確な原因のない、漠然とした「辛い」という気持ち。そういう気持ちを抱えたまま、定職に就かず、就いても面倒な自意識に苛まれて辞め、ドラッグと酒とインターネットに溺れる自堕落な生活を送り続け、真赤に振り回される共依存的な関係に堕す。その様子は、週刊連載ならではの短めのエピソードの集積によって語られていく。

サーカス、すなわち見世物である。インターネットのテキストサイトに魅せられ、自らの生活を切り売りし、肥大化した自意識を時に面白おかしく時にに悲惨に公開していく彼らに、なんて相応しいレッテルだろうか。

明確にどこかにたどり着く話ではない。鬱屈とした青年が、鬱屈とした人間たちと、鬱屈とした生活を送るだけの話である。残るのは、ぬるい泥沼にずぶずぶと落ちていく感覚のみである。

ここ3年ほど音沙汰の無い作者だが、また小説を(可能ならエロゲーを)書いて欲しいなぁ。最新作は3人称だったので、できれば独白めいた1人称で。

売野機子の少女ポエムに救われて

薔薇だって書けるよ―売野機子作品集

薔薇だって書けるよ―売野機子作品集

同窓生代行―売野機子作品集2

同窓生代行―売野機子作品集2

世の中に存在する漫画の中で最も好きな装丁であると言っても過言ではない、売野機子作品集シリーズ。トレーシングペーパーの手触り、透けて見える写真、キュートさと儚さが同居した女の子たち。

このジト目の表紙もやばい。

今(更)、私の中で売野機子が来ている。社会人生活に慣れてしまいつつも辟易している自分の気持ちにあっているのだろうか。

売野機子が語られる時、大島弓子が引き合いに出されることは多い。「少女性」とでも言えば良いのか、考えないまま無条件に流されて「大人」になることを拒むような、慣性の法則に従ったような成長はしない(できない)人々を描く点は共通している。若干ポエミーな言葉で社会とか大人とか自分の気持ちとかへの違和感の表明は、成る程大島弓子に近い。短編に強いところとかも。

とにかく台詞のセンスが抜群に好み。

おれは大人になったらわかるよって言わないように気をつけた

でも何度も言いそうになって本当に本当におれは大人になっちまってさびしくて悲しい
『かんぺきな街』

走ってゆけ 走ってゆけるり
フリルを翻しながら
大人という生き物が本当に居ると信じてるうちに
『汚い大人になる前に』

真美 お元気ですか
私は少し疲れてずっと家に居ます
たくさんの物語を読んで いくつかの詩を書きました
私は病気みたいです
それでもずいぶん元気になって
今ではうんざりすべき6月の空にも
よろこびを見つけてしまえる始末なのです
『しあわせになりたい』

世と未来を憂う少女チックなポエミーな台詞を書かせたら右に出るものは居ないのでは?という位、言葉巧みである。

いやー、ホント大人になるって面倒臭い、と言えるほど大人ではないが、マジで未来が煤けて見えて悲しい。というここ2週間くらいの気持ちを掬ってくれるような、売野機子の少女性ポエムに浸って生きていくよ私は。

因みに最も好きな話は『しあわせになりたい』収録の『不安定だったころのキミが好き』である。進学校に通う男子中学生とバツイチ広尾在住30代半ばの関係を描いている話。これはもう雰囲気が好み過ぎて。